「俺は嫌だ……俺はおまえがそんな風に生きていくのは嫌なんだっ」
要は苦しそうに声を詰まらせながら、顔を歪める。
楓はそんな要のことを目を丸くして凝視していた。なんで、なんであなたがそんな表情をするの?
「関係ないでしょ、何なの……私のことは放っておいてよ。
どうして、そんなに私に構うの?」楓にここまで関心をよせ、関わろうとする人間は初めてだった。
要の言動の意味がわからなくて、楓の頭は混乱していた。激しく戸惑い動揺する楓を見つめ、要は照れくさそうな表情をし、小さく笑う。
「おまえが心配だから……それじゃあ理由にならない?」
「……わかんない、わかんないよ。もう……わかんない」楓は小さく頭を振る。
疲れていて、もう何も考えたくなかった。
「俺がいる」
「え?」お互いの視線がぶつかる。
要の瞳は、すごく綺麗で澄んでいた。
「俺がいるよ、井上の傍に。
俺はおまえの味方だ、絶対裏切らない。信じてくれ」要の身体にすっぽりと楓は包まれる。
とても温かかくて、気持ち良くて安心する――。
こんな風に誰かに抱きしめてもらったこと、あっただろうか。
遠い昔の記憶を辿ろうとするが、思い出せなかった。「おまえ……今まで本当によく頑張ったな。
今まで生きていてくれて、ありがとう。俺に出逢ってくれて、ありがとう。 もう一人で頑張るな、これからは俺がついてる。 弱くたっていいんだ、強くなくたっていい。おまえはおまえのままで――」 「なっ…………んでっ……っっ」楓の頬を涙が伝っていく。
押し殺していた感情が一気に溢れ出すように、ポロポロと涙は次々と落ちていった。
なんで要はいつも欲しい言葉をくれるんだろう。
傍にいて欲しいときに、いてくれるんだろう。なんで、こんなに暖かいんだろう。
要は楓の涙を宝物に触れるようにそっと優しくぬぐってくれた。
「なんで、あなたが……そんなことっ」
泣きじゃくる楓はなんとか要の体を押し返そうとする。が、要はさらにきつく楓を抱きしめてきた。
「おまえが好きだからだよ! わかれよっ」
楓が驚いて要を見つめると、要の顔は赤く染まっているように見えた。
「え? なんで……そんな、だって、好きになる理由ないし。
そんな素振りなかった!」予想しなかった言葉に頭は混乱し、もうどうしていいかわからない楓はあたふたするしかない。
激しく動揺する楓を見つめ、要は短くため息をついた。
「あのなあ……気づいたら好きになってた、そういうもんだろ。
それに……そんなすぐにアピールできねえよ。 好きなら、なおさら」少し恥ずかしそうに下を向く要が可愛く見えてしまったことに驚きつつ、不思議と楓の心はふわふわしていた。
「……返事はどうでもいいからさ。
とにかく俺がついてるから、もう一人で抱え込むなよ」要の告白に、楓は世界がひっくり返るかと思うほど驚いた。
しかしそれ以上に、安堵からか涙が次から次へとまた溢れてくる。すべてを受け入れ、受け止めてくれる存在。
その存在がどれだけ安心感を生むことか……。
暗闇の中に、暖かな光が差し込んだような気がした。
楓は要の胸に顔をうずめると、今まで溜めてきたたくさんの感情を吐露するかのように泣いた。
大きな声で、腹の底から、心の底から泣いた。
それに伴い、涙は滝のように溢れていった。
しばらくして、楓は泣き疲れたのか要の膝の上で眠り、すやすやと寝息を立てていた。
その顔は、母親の胸で安心して眠っている赤ん坊のような、安らいだ顔だった。要はそんな楓を優しく見つめながら、何かを真剣に考え込んでいる。
「……俺が必ず守る」
その瞳には、何か強い意志を宿したかのような淡い光を放っていた。
「もう三ヶ月かあ」 要が懐かしむように空を見上げ、つぶやく。 あの海岸で、楓が亜澄に想いを伝えてから三ヶ月が経っていた。 楓の人生でとても大切な日であり、革命を起こした日。 でも、きっと一人では革命は起こせなかった。 楓は要に視線を送る。 その視線に気づいた要は応えるように目を細めた。 心臓の音が大きくなり、楓は要から目を逸らす。「で、どうなの? 母親は」 「うん……美奈と二人でうまくやってるよ」 「そっか、楓は?」 「私も大丈夫。毎日充実してて、楽しいの」 こんな風に思えたのも、きっと要がいてくれたから。 言わなければいけないことがある。 これからも一緒にいたいから、失いたくないから。 ずっと伝えたかった、でも伝えられなかった想い。「……私、要がいると強くなれるの。要が傍にいると安心する」 楓は高鳴る鼓動を無視し、なけなしの勇気を振り絞って叫ぶ。「私っ、要の傍にいたい! ずっと、ずっと! これからも……一緒にいてくれる?」 楓にとっては、これが精一杯の告白。 崖から飛び降りるような思いで告げた。 楓は怖くて要の顔が見れなかった。 真っ赤な顔をして下を向いている楓を見て、要が口を開く。「……楓」 呼ばれても、楓は要の方を見ない。 心臓が爆発しそうで、どんな顔をして要を見ればいいのかわからない。 楓は地面ばかり見つめていた。「楓――好きだよ」 楓がゆっくりと顔を上げ、要へ視線を向ける。「い、今……なんと?」 楓は間抜けな顔で要を見つめた。「ぶっ……おっまえ、なんつー顔してんだ」 ケラケラと笑う要。「す、す、好きって、聞こえたような」 「うん、言った」 「嘘!」 「なんでだよ! 前にも言ったろ? 俺はおまえが好、き、な、の!」 要が楓のおでこを人差し指で小突いた。 確かに、以前要から告白されたような気がする。 あの時はいっぱいいっぱいで、おぼろげにしか記憶が無い。「なんで? どこが?」 「うーん、まあ結構前からおまえのこと気になってて。 知れば知るほどおまえのことが頭から離れなくなって、目で追うようになってた。これって恋だろ?」 楓はしばらく考えていたがよくわからないようだった。 頭の上に?マークが飛び交っているのが見える。「でな
あれから楓は家を出て、一人暮らしを始めた。 実家や学校からほど近く、家賃もお手頃で、一人暮らしをするには充分な六畳一間のアパート。 築年数は古く少しレトロな雰囲気も、楓は気に入っていた。 当面の生活費は亜澄が出してくれるみたいだが、ずっと頼るわけにはいかない。 少しでも足しになればと、楓はアルバイトすることにした。 アパートの近所に小さな本屋があった。 こじんまりとした店だが、書物の品ぞろえが楓の好みと一致しており、お気に入りの店だった。 店内も古風な造りで、そんなに混み合うこともなく静かな環境で読書に集中できる。 自然と楓の足が店に向かうことが多くなっていた。 店主はこの店を一人で切り盛りしており、随分年を取っているようだった。 重そうな荷物を運ぶのに苦労している姿を見て、つい声をかけてしまうことが何度かあった。 時々話をするうち仲良くなった楓に、店主はアルバイトをしないかと提案してきた。 楓にとってはこの上なく嬉しい申し出だった。 すぐに返事をすると、店主は時給は安いけど、と申し訳なさそうに微笑んだ。 数日前、学校から帰った楓がポストを覗くと、亜澄からの手紙を発見した。 すぐにそれに目を通す。 手紙には、亜澄や美奈に起きた出来事がつらつらと書かれている。 そして最後に、楓の体調を気遣う言葉が一言添えられていた。 文面を読んでいると、クスっと笑いが漏れてしまった。 だって、とてもたどたどしいから。 たぶん美奈に言われて書いたことが想像できた。 美奈の指示を受け、ブツブツ文句を言いながら文をしたためる亜澄の姿が目に浮かぶ。 亜澄は父との離婚が無事完了し、今は美奈と二人で暮らしている。 あれから亜澄も変わった。 昔とは違う穏やかさが最近少しずつ垣間見れるようになった。 きっと父と別れたことによる心の平穏と、私と離れて過ごすことによる心の安定を取り戻したから
「いつも不安だった。 私は母さんにとって必要ないんじゃないか、家族や世の中に必要とされてないんじゃないかって。 もしそうなら……私はいったい何のために生まれたんだろうって。 誰からも愛されることはない、利用価値が無くなれば捨てられてしまう、誰からも必要とされない。 そう思って生きるのは、苦しかったっ」 楓は胸の辺りをギュッと掴むと、苦しそうに息を吐いた。「誰でもいいから愛されたい……そう思ってた。 私を必要としてくれるなら、誰だっていい。とにかく愛され、必要とされたいって。 ――でも、今はわかる。 私が本当に愛されたかったのは母さんだった。 だから、母さんが苦しんでる姿は見たくなかったし、母さんが少しでも楽になるなら、私はどんな目に遭ってもよかった」 楓は一度大きく深呼吸する。 そして、一度目を閉じてからゆっくりと開け、真っ直ぐに亜澄を捉える。「でも……でもね、それじゃあ駄目なんだ。 私が壊れていく、無くなっていく。 私は、私を愛してなかった。 ……自分を愛したい、大切にしたいの。 彼がそれを教えてくれた、気づかせてくれた」 楓が要の方へ視線を向ける。 ずっとこちらを見ていたのか、要の視線とすぐに交わった。 お互いの考えていることがわかる。 わかってる、わかってるよ、ありがとう。 どこまでも強くなれる……そんな気がする。「母さんも、もっと自分を大切にして、愛してあげて。 我慢しないで欲しい、母さんには笑って生きてほしい」 今まで黙っていた亜澄が、この言葉にはすぐさま反応し言い返してきた。「何言ってるの? 私は私を愛してるわ!」 強気な口調とは裏腹に、亜澄は何かに怯えるように小刻みに震えている。「母さん、今誰のために生きてる? 父さん? 美奈?」 「違う! 私がみんなに尽くすのは私のためよ。愛されたいから尽くすの、それが幸せだから!」
夕暮れの海は朱色に染まり、波が寄せては引いてを繰り返していく。 風は少し冷たくて、楓が肩を竦めると要は自分の着ていたジャケットを彼女の肩にそっとかける。「ありがとう」 「うん」 二人は約束した海岸で亜澄を待っていた。 楓の思い出で、唯一幸せな時間を過ごした場所。 亜澄がまだ小さな楓と美奈を連れてきては、二人が遊ぶ姿を優しい笑みを浮かべ見守っていた。 あの頃の亜澄は今とは違い、普通の母親のように楓を愛しく思ってくれていたように思う。「ここが思い出の海?」 懐かしそうに目を細め海を眺める楓の邪魔をしないように、要は静かに問いかける。「うん……よく母さんと妹と三人で来た。 母さんが私たちを優しく見つめる目が好きだった」 楓が紡ぐその言葉に、要はただ静かに耳を傾ける。「あの時から、母さんはきっと辛かったんだと思う。 笑ってても、たまにすごく寂しい目をしてた……。ここへ来ては自分を慰めてたんだと思う」 そのとき、背後から砂を踏みしめる音が聞こえた。「こんなとこに呼び出して、何?」 楓が振り向くと、そこにはすごく不機嫌そうにそっぽを向く亜澄が立っていた。「母さん……来て、くれたんだ」 楓が嬉しそうに微笑むと、亜澄は苦虫を噛み潰したような顔をする。「しょうがないでしょ……美奈ちゃんが行けって言うから」 嫌がる亜澄を美奈が諭している映像が、楓の脳裏に浮かぶ。 なんだか微笑ましくて、楓は自然と笑顔になった。「美奈っていい奴だよな」 要も可笑しそうに笑っている。「それで、私に何か用?」 この場の雰囲気が嫌なのか、亜澄はさっさと要件をすませようと催促する。 楓は要を見つめた。 要もそれに応えるように頷くと、楓の背を力強く押し、送り出す。 手は震え、口は乾き、足は竦む。 逃げたい、逃げたい――でもここで逃げたらまた同じ。
「楓さんはあなたのことが大好きですよ、とても。 今のあなたでは楓さんを幸せにすることはできない。……何がそうさせていると思いますか?」 要の全てを見抜いているような態度に、亜澄は居心地の悪さを感じる。「なんなの? なんであなたにそんなこと言われないといけないわけ? あなたに何がわかるの? 他人の家のことに口を出さないで! 帰って! 帰ってよ!!」 興奮した亜澄は血走った目で楓を睨んだ。 その瞳からは憎悪や嫌悪、不の感情しか伝わってこなかった。 この視線を向けられる度、楓の心は深く傷付き……死んでいく。 自分はいらない存在なのだと、必要ないと知らされているようで。「何! 母さんのこと苦しめて楽しい? そうやって母さんのこと苦しめて、楽しんでるんでしょ?」 「母さん、ちが……」 ガシャーンッ! 亜澄が楓目掛けて投げた瓶が、壁にぶつかり粉々に散った。 瓶が当たる寸前、要が楓を引っ張った。 間一髪、楓は要の腕の中で難を逃れていた。 亜澄は何かブツブツつぶやいている。 目は血走り、息は荒く、興奮状態であることがわかる。 こういう状態の人間は危険だ、何をしでかすかわからない。「……井上、今はいったん引こう」 危険だと判断した要は楓の肩を抱き、亜澄から離れようとする。 楓は亜澄に向き直ると、今できる精一杯の気持ちを込めて叫んだ。「母さん! 明日午後六時、小さい頃よく連れて行ってくれた、あの海で待ってる。……ずっと待ってるから」 亜澄の瞳の奥が揺れた、楓を見つめ返す。「な……んで……」 大きく開いた目で楓を見つめる。その瞳は揺れ、激しい動揺が見て取れる。 戸惑い狼狽する亜澄をその場に残し、二人は静かに出ていった。 「あ……う……うっ」 残された亜澄は、一人その場で崩れ落ちる。 いろんな感情が溢れてきて、心
「井上、亜澄さーん!」 それは近所に響きわたる程の大きな声だった。 ドドドドドッと中から音がしたかと思うと、バンッと大きな音を立てドアが乱暴に開く。「ちょっとっ! どういうつもり? 近所迷惑でしょ!」 亜澄はぜぇぜぇと呼吸しながら、楓の隣にいる要をキッと睨みつけてきた。「だって! こうでもしないと出てこないでしょ!」 これでもかと大声を出す要。「もう、いいから、家に入りなさい」 亜澄はこれ以上うるさくされては適わないとばかりに、そそくさと二人を家へ招き入れた。 要はにんまりとほくそ笑む。 作戦成功といったところだ。 気が気でなかった楓は、ほっと胸を撫でおろした。 家に入ると、二人はリビングへと通される。 亜澄はソファーにドカッと座り、足を組み腕を組む。なんとも女王様のような恰好だなと要は感心した。「で、何?」 ギロッときつい眼差しを向けてくる亜澄。 威圧に怯え、一歩後ろに下がっている楓の代わりに、要は亜澄を真っ直ぐに見据えた。「もう楓さんのことを苦しめないでもらえますか?」 その言葉を聞いた亜澄は、なんとも不思議そうな顔をした。 しばしの沈黙のあと、腹を抱えて笑い出す。「ふふふっ、ははははっ、何言ってるの? 私がいつ楓を苦しめたっていうの?」 本当にまったく見当がつかないというように、亜澄は肩をすくめている。「心当たりはないと?」 「ええ」 「少しも?」 「ええ」 余裕の笑みを見せる亜澄の姿に、要があきれたように長いため息をついた。「楓さんのこと、罵ったり、無視したり、時には暴力振るうこと……ありますよね?」 亜澄は驚きを隠せない様子で楓に視線を向ける。「楓――あんたっ」 「楓さんは何も言ってませんよ、僕の勝手な推測です。当たりました?」 要の意地悪そうな笑みを見て、亜澄は悔しそうに唇を噛んだ